「あなた」をカテゴライズしないで
他人から言われた些細な言葉で、つい自分らしさをやめてしまったことがある
自分らしさってなんだろうね。
「あなたはこういう人だと思っていた」
「〇〇さんはこうなんでしょ」
「こういうことをする人は〇〇なんだよね」
という表面をなぞった中身をみてないような言葉が、突き刺さる
いや、中身なんてあるのだろうか?とさえ思う
人をカテゴライズすることは簡単だ
けれどもそのカテゴライズ通り生きようとするとどうも窮屈に感じる
まるで、それ以外を演じてはいけない。
と言われているような錯覚さえ覚えてしまうのだ
例えば、性格診断がわかりやすいかな
言われた「それ」を自分だと信じこんだり、真実だとおもうと
どうにも、虚しさを覚えてしまうのだ
人間ってそんな単純なものかい?
そんないろんなものに当てはまってしまう言葉だけで
そんな一点しか照らせていない言葉で
片付いてしまうのかい?
まだ自分でも見つけられなかった
未開拓のあなたが泣いていたりしないかい?
そんなことを時々おもったりするのだ。
「ああ、これしてみたいな」「これ好きだな」と思って
そうやって動いた先の形が「あなた」という人間を形創ると
私は信じてやまない
【スイートピー/蝶のように舞う・別離】
花が咲いて散っていくことを
鳥に翼があることを
風がそこに流れることを
否定できるものではないのに
無意識のうちに
いつか殴るように誰かにつけられた
傷跡のような優劣を
また他の誰かにつけそうになってしまう
そのたびに踏みとどまって
泣いている声が聞こえる
君は君のままで居ていいのにね
楽しみを編んでいく
猫のような生き方ってすごく良い
昔から猫って本当愛されていますよね。
近い内に猫と暮らせるようになるのが小さな夢です
いや、夢というより目標かな
自分で作った目標があるだけで、これから何をしていこうか
その目標に「私も私も!」と便乗するように
楽しみが湧いてくる気がします
ただそこに居るだけで癒やされる存在。
あくびをしてるだけなのに心が緩む
ワガママ放題だけど、それも嬉しく感じたり
ちょっとした刺激の好奇心ですぐ走り出したり
かと思えば、目を話した頃にはすやすやと眠りについている
猫って喉をなでると喜びますよね。
マッサージして癒やしてるはずの自分がいつの間にか
一番癒やしをもらっていたりするのだから
なんとも不思議な存在です
是非、一緒に生活できるようお迎えしたいという思いを
日々募らせながら、町中の猫をよく眺めて
猫と旦那と暮らす新居について思いを馳せます
そうだな。この感覚は楽しみを編んでいるみたいだ
毎日を息することって、
まるで編み物をするよう
毛糸と毛糸を棒針でかけていき
ひとつの布にしていく
時々、ほつれたり、キツく紐を引きすぎたり
そんな日もある
優しく、穏やかに編んでいく
そんな毎日を丁寧に重ねた先に
見える景色があること
今日の想いがいつかの私に届くこと
優しく、穏やかに
今日も柔らかな日々を編んでいく
手間のかかることって時折投げ出したくなるけど
振り返ってみると、どれもこれも無駄でなくて
自分を温めてくれるようなものになる
って私はいつも思うのです
今日も皆さんにとって
柔らかな日々でありますように
やってみたいを形にする
2月に入ったので、色々と活動を開始したいと思う
以前はアメブロでエッセイを描いていたけど、
元々してみたかったことをこれからできたらいいな~
「何ボーッとしてるの。しゃんとしな~」
— つかもとあさひ (@magunor) 2019年2月1日
とお姉さんに言われたい人生だった pic.twitter.com/RMRpmmRo85
これから何を形作っていこうか
言葉にしなきゃ伝わらない。
そういうものって多い。
けれども、昔から思うことは
この頭に溢れるものを伝えるには
言葉だけではどうにも足りないような気がしてならないのだ
柔らかさだったり、鋭さだったり、
そいつはいつも同じカタチをしてやいないから
どんな形になるか楽しみながら、また形にしていこう